ゆるくいろいろ

言語化の練習 音楽とかアニメとか翻訳とか

Carl Busse - Über den Bergen 和訳

ある機会に翻訳を頼まれたのでここにメモとして残しておきます…。

 

Über den Bergen

山の向こうに

 

Über den Bergen, weit zu wandern,

山を遠く越えるところに

Sagen die Leute, wohnt das Glück,

幸せが住むと人は言う

Ach und ich ging im Schwarme der andern,

ああ、群れに紛れて歩いたが

Kam mit verweinten Augen zurück.

目を泣き腫らし帰ってきた

Über den Bergen, weit, weit drüben,

山の遠く遠く向こうに

Sagen die Leute, wohnt das Glück

幸せが住むと人は言う

Rammstein - Mann gegen Mann 和訳

扁桃腺炎になったので3日間くらい寝込んでました。抗生物質を飲み始めてから一気に痛みが引いた。医学ってすごいな、としみじみ。しじみ

ずっと書き留めておきたかった翻訳シリーズ第一弾。とても楽しかったです。Rammsteinのアルバム、もう一回全部聴き返さないとなあ。

 

Mann gegen Mann

男 対 男

 

Das Schicksal hat mich angelacht

運命は私に微笑み

Und mir ein Geschenk gemacht

贈り物をくれた

Warf mich auf einen warmen Stern

そして暖かい星の上に放り投げた

Der Haut so nah dem Augen fern

肌には近く目からは遠い

Ich nehm mein Schicksal in die Hand

私は自分の運命を手にとった

Mein Verlangen ist bemannt

欲望は生きている

 

Wo das süße Wasser stirbt

Weil es sich im Salz verdirbt

甘い水が塩の中で腐敗し死んだら

Trag ich den kleinen Prinz im Sinn

私は心の中で小さな王子になる

Ein König ohne Königin

王女が居ない王様に

Wenn sich an mir ein Weib verirrt

もし女が私のところへ迷い込んだら

Dann ist die helle Welt verwirrt

明るい世界は戸惑うだろう

 

Mann gegen Mann

男 対 男

Meine Haut gehört den Herren

私の肌は主人のもの

Mann gegen Mann

男 対 男

Gleich und Gleich gesellt sich gern

同じもの同士は近くに居たがる

Mann gegen Mann

男 対 男

Ich bin der Diener zweier Herren

私は二人の主人の下僕だ

Mann gegen Mann

男 対 男

Gleich und Gleich gesellt sich gern

同じもの同士は近くに居たがる

 

Ich bin die Ecke aller Räume

私は全ての部屋の角だ

Ich bin der Schatten aller Bäume

私は全ての木の影だ

In meiner Kette fehlt kein Glied

私の鎖は完全だ

Wenn die Lust von hinten zieht

性欲に後ろへ引っ張られても

Mein Geschlecht schimpft mich Verräter

私の性別が私を裏切り者だと叱る

Ich bin der Albtraum aller Väter

私は全ての父親の悪夢だ

 

Mann gegen Mann

男 対 男

Meine Haut gehört den Herren

私の肌は主人のもの

Mann gegen Mann

男 対 男

Gleich und Gleich gesellt sich gern

同じもの同士は近くに居たがる

Mann gegen Mann

男 対 男

Doch friert mein Herz an manchen Tagen

けれど時々心が冷える

Mann gegen Mann

男 対 男

Kalte Zungen die da schlagen

冷たい舌がこう叩く

 

Kalte Zungen die da schlagen

冷たい舌がこう叩く

Schwuler!

ホモ野郎!

Aaaaahhh!

あああああ!

Schwuler!

ホモ野郎!

Aaaaahhh!

あああああ!

 

Mich interessiert kein Gleichgewicht

平衡に興味はない

Mir scheint die Sonne ins Gesicht

太陽は私の顔を照らす

Doch friert mein Herz an manchen Tagen

けれど時々心が冷える

Kalte Zungen die da schlagen

冷たい舌がこう叩く

 

Schwuler!

ホモ野郎!

Mann gegen Mann

男 対 男

Schwuler!

ホモ野郎!

Mann gegen Mann

男 対 男

Schwuler!

ホモ野郎!

Mann gegen Mann

男 対 男

Schwuler!

ホモ野郎!

Mann gegen Mann

男 対 男

gegen Mann

対 男

 

メモ

fehlenをどう翻訳しようかかなり悩んだ。元々あったものが無くなった状態を表す単語が日本語では思いつかない。英語だと(something is) missingかな。そこでドイツ語では誰かを恋しく思うとき、"du fehlst mir"と言うことを思い出した。相手を自分の一部として捉えていて、それが足りなくて寂しい、という表現なのが綺麗でいいな、と。つまり「あなたが居ない私は不完全だ」、的な。英語の"I miss you"もそういうことなのかな。そういうことだよね。やっぱり言葉はおもしろい。

サリンジャー エスキモーとの戦争前夜

ナイン・ストーリーズの2話目、「コネチカットのアンクル・ウィギリ―」の感想は飛ばします。外に居たせいか、あまり集中できなかったのでもう一度読み返したい。

私は少しでも雑音があると気が散って全然読めないことを思い出した。元々ほとんど本を読まないから、こうして久しぶりに何か読んだときに色んな感覚を思い出したり発見したりできるのが楽しい。

 

エスキモーとの戦争前夜」は第2話同様、対話が多い。けど2話目ほど明確ではなく、全体の雰囲気は「バナナフィッシュ日和」に似ているな、と感じた。対話が多い話は昔からあまり好きじゃなかった。ドイツ語の授業で読んだ本のほとんどがダイアログ形式のものだったからかな。淡々としすぎてて読者がいろんな解釈ができるための余白がほとんど残されていないじゃんって思ってた。

けどそれはただ単に私がちゃんと読んでいなかっただけなんだ、とサリンジャーに触れて気付く。何気ない会話がなんだかすごく綺麗で、面白い。アンクル・ウィギリーを読んだときも思ったけど、あんなに自然にたくさん喋れたらな~。スモールトーク、というか、スモールじゃないトークにすら苦戦している私にとってあの技術は羨ましい限りである。

 

冒頭のジニーとセリーナがちょっとした言い合いをするシーン、好きだなあ。セリーナはなんか「やな奴」だなって読みながら思ってたけど、高校生?だっけ、ってみんな大体あんな感じだよな、とまた何となく何かの記憶が蘇った。たぶん私もやな奴だったんだろうな。ただ、私は家族以外の人間とは喧嘩も、ジニーたちみたいな言い合いもしたことがないので、そのことを思い出すたびに少し落ち込む。他人とちゃんと感情と考えをぶつけ合うことって大切だよね、きっと。そういう争いを面倒くさがって今まで避けてきた私はただの怖がりなのかもしれない。

 

ジニーは最初はセリーナから絶対にお金を返してもらう予定だったのに、彼女の家でフランクリンとエリックに出会ってなぜか気が変わったのだ。その理由というかきっかけはよく分からないけど、結局ジニーは優しい子なのかな、と思った。優しいっていう言葉は的確ではないかも知れない。最後に語られるひよこのことや、サンドイッチを捨てられなかったことを知って、ジニーはお金をもらうよりもセリーナとまた会いたかったのかな、と。あのままお金をもらってたら、彼女たちの関係は変わっていたのかな。

 

最後にタイトルについて。いい感じに意味不明だな、と思う。エスキモーとの戦争というのは架空の戦争なんですか?ですよね?調べてみたけど特に何も出てこなかった。こういうときにまた自分の無知を恥じる…歴史は、歴史だけはちゃんと勉強しよ。

戦争に行く老人たちのことをジニーは知らなかったみたいだけど、じゃあ「戦争」っていうのは比喩表現か何かなのかな?フランクリンに「あなたは行かなくてすむよね」と言ってしまったことを申し訳なく思うジニーとそれに対して「わかってる」と即答するフランクリン。それってフランクリンは本当は戦いたかったっていうことなのかな?戦って、死にたかったのかな?

 

おばあちゃん

久しぶりに母校へ行ってきた。知ってる顔がちらちら見えて、懐かしかった。匂いも懐かしかった。用事を済ませたあとは、学生時代よく行ってたパン屋でパンとコーヒーを頼んでサリンジャーの日本語訳を読んでた。お昼ご飯にしては足りないかな、って思ったけど時間が経つにつれどんどんお腹いっぱいになる。

 

しばらくすると、この店の常連客らしきおばあちゃんが隣の席に座った。15分くらいしたら、「それ、読めるの?」と話しかけられた。本の表紙を指差して。「読めますよ。」と返したら、「ほんとうに?アラビア語?」と思ったよりも驚きながら聞いてきた。私が日本語だと言ったら「あら、日本…日本はとっても信頼できる国ね。素晴らしい民族よ。」と感心してた。
そこからウクライナとロシアのこととか、神様のこととか、色々話した。その時間があまりにも楽しくて、尊かったので今記憶が残ってるうちに頑張って書いてる。と言ってももう半分くらいは忘れてしまった気がするけど。
 
彼女は「プーチンは神の天罰が怖くないのかしらねえ」と言った。彼女の母がいつも「Er ist allwissend, allmächtig und allgegenwärtig.」(彼(神)は全知、全能、そして偏在である。)と言っていたらしい。この2時間ほどの話の中でその母のことを何度も話してた。「私のお母さんはいつもこう言ってたの。」って。
 
正直最初は「あ、これは延々と神様の話を説教臭く話されるのかな。」と思ったけど、気付いたらなんか色々懐かしくなって、おばあちゃんとの会話に夢中だった。
 
「何か悩み事があるときは人に話すんじゃなくて、あそこに居る方に話すのよ。」と彼女は天井を見ながら言った。私が信じるか信じないかはさておき、そういう心の支えがあることって大事だな、と昔から思ってる。自分を見守ってくれる誰かが空の上に居るんだ、って思うことで少しでも心が楽になるならそれは良いことなんじゃないか?それを他人に押し付ける過激な人たちは怖いけど。生涯を通してひとつの信念を抱き続けることに何となく美しさを感じる。
 
人間に造られたものであったとしても、神が居なかったら私が大好きな音楽の数々は存在していないだろうな。そう思うとまた…話がどんどん脱線していく。
 
おばあちゃんは3人兄妹の長女らしい。とても90歳とは思えないほど元気で、たくさん、はきはきと喋る。ドイツ人らしくてとても愛嬌がある人だった。彼女のお母さんは102歳まで生きたそう。「お母さんは私をとても愛してくれた。もちろん私もお母さんを愛してた。」この歳になっても鮮明に覚えている母の教えはそれほど彼女にとって大切なものだったんだろう。かなり長い神様についての詩を早口で発表して、そのあと自慢げに笑ったおばあちゃんが可愛くて仕方なかった。
戦争の話もしてくれた。いわゆる「戦争は酷いよ」みたいな話ではなく、家族とどこかへ逃げたけどその先に居たアメリカ兵が他の人に内緒でとても優しくしてくれた、みたいな小さな幸せの瞬間も交えて語ってくれた。そういうエピソードが話の現実味を増やした。敵側も人間で、家族が居て、子供が好きで。どうしようもない気持ちが伝わった。
 
私が彼女との話に懐かしさを感じたのは、きっと高校の先生を思い出したから。なんと、偶然にもおばあちゃんも先生だったらしい。私の先生たち(主に2人)は別に私たちにキリスト教徒になれ、と言ったわけじゃなくて、ただ「聖書にはこういう言葉があるんですよ」と彼女たちの知識を分けてくれた。(キリスト教に限らず)その知識量に私はとても憧れていた気がする。
 
他に何を話したかはもうあまり覚えていない。本当は最初、今日のことは書かないほうがいいんじゃないかって思ってた。やっぱりあの時間に感じた幸せは言葉なんかでは再現できないし、変に言語化することでその幸せが失われるのがちょっと怖かった。音楽も、友達とのセッションとか合唱のリハーサルとか、私はそのあとも聴き直したいから録音しちゃうことが多いけど、毎回そのあとに「やっぱりやらないほうがいいかな」って思う。特に演奏中に録音すると、みんなとの繋がりがあまり楽しめなくなる気がするから。
でも、おばあちゃんと話してる最中にどんどん話した内容が頭の中から消えていくのを感じて、いつか今日のことは全部忘れちゃうのかな、ってちょっと泣きそうになったので、やっぱりこうやって何らかの形として残すことにした。いつかここの文章を読んで、今日のことを何となくでもいいから思い出せたらいいな。
 
最後、店を出る準備をしてたときに母校の生徒が入ってきて、「さっき買ったBerliner(ジャム入りドーナツ)3個のうち、2個はジャムが入ってなかったんだけど」とカウンターのおばさんに言ってたのが妙に可笑しかった。「あれ、そんなことあるんだねえ。これは絶対に入ってるはずよ。」と新しく2個もらった彼らがなんか面白そうに笑ってた。

サリンジャー バナナフィッシュ日和

やっぱり私は俗に言う「夜型」なのか、ブログも勉強も練習も夜にならないと捗らない。というかモチベーションが湧かない。明日も早起きしないといけないのに。今やってることよりもやるべきことがある筈なのに。でもそんなの、いつだっていくらでもあるよね。

 

かなり前に買ったサリンジャーナイン・ストーリーズを暇だったので読み返した。そもそも最後まで読み終わってなかったけど。柴田元幸さん訳の日本語版。最初から読みたかったからまずはバナナフィッシュ日和を。前は何回かに分けて読んだ気がするけど、今度は一気に全部読んだ。

 

とりあえず今の感想は「オリジナルが読みたい!!」。翻訳が悪かったとかじゃなく、むしろ逆だと思う。英語でも読んでみたくなるような、翻訳だった。

ただ、英語の和訳において思うのが、私はネイティブスピーカーではないけど普通の日常会話とそれより少し難しいレベルの英語ならほとんど問題なく理解できて、もうかなり長い間英語に触れてるから、自分の中で勝手に英語の言葉とかフレーズのイメージというか色ができあがってしまってる。そのせいで他の言語の翻訳がその自分のイメージと違うと違和感を感じてしまう。ということ。

つまり、ハリウッド映画を日本語吹き替えで観るときのあの「日本語ならでは」の陽気なアメリカ人男性の描き方。ああいうものを何となく変だな、と感じてしまう。あれはアメリカに住むアメリカ人なんじゃなくて、「日本人から見たアメリカに住むアメリカ人」なんだよね、当たり前だけど。

このテーマも面白いけど、それについてはまた別の機会にでも。とりあえず、ナイン・ストーリーズを全部読み終わったら近々オリジナルも読もう。

もちろん翻訳を通してでもサリンジャーの小説の美しさはとてもよく見えた。説明的というか、こういうときに良い日本語訳が思いつかない、つまりdescriptive、な文章がほとんどなのが私はいいな、と思った。やっぱり語り手って小説を組み立てるとても大事な部品の1つなんだなあ。バナナフィッシュ日和では語り手が登場人物の気持ちとか精神状態をほとんど明かさないお陰で、読者がすごく自然に自分の解釈を挟んで話に溶け込められる。

私はあまりたくさん考えながら読むタイプではない。いろんな情報の解釈も、もちろん無意識にはしてるんだろうけど、頻繁に立ち止まって考察しながらは読まない。だからなのか、読み終わったあとに「あー、あれはこういうことだったのか」みたいな瞬間がたくさんあって、その時間がすごく好きだ。

特にこの話はあの結末があってこそ、その前に描かれたもの全てが繋がっていくような感じがした。何も語らないことの美しさ、なのかな。

 

読みたてほやほや、感じたてほやほやの状態でこうやって思ったことを言葉にする楽しさを発見。次のストーリーの感想も、余裕があったらここに書こうかな。

今年の抱負とか

なんともうすぐ最後の投稿から1年が経つ。そんなに長い期間この場所を放置していたのか。でも、好きなときに好きなことが書けるのがここの良いところだと思っているので今日も気楽にいきます。

 

2月の中旬になって今年の抱負について書くのはどうかと思ったけど、better late than neverということで適当に試行錯誤しながら言葉を並べる。

大まかな目標というか、それっぽいことは1月に考えた。とりあえず「いい感じ」の年にしたいな、みたいなことを思っていた気がする。とてつもなくふわふわしているけど、それが面白そうだなというか。具体的な目標を決めてしまうとそれが達成されなかったときに落ち込んでしまいそうだけど、こういうふうに全くよく分からない、もやもやっとした目標だときっとどんな結果でも満足できる。私はどこまでも自分に甘い。

そもそも「いい感じ」の判断基準が自分にあるのが怪しいけど、つまりは今年の抱負は敢えて抽象的にしよう、ということなのだ。

 

少しだけ近況報告をすると、ここ数日は天候の影響もあってか少し気分が憂鬱になっていた。原因は不明。こんな時にここで頑張って言語化をするべきなんだろうけど、なんかもう別にいい気がしている。ちょっと本末転倒かも知れない。

けど、私にとって感情はその起源がはっきり見えているものなんじゃなくて、「あ、今悲しいな。…あれが私を悲しくさせているのか。」みたいな、逆算的なものというか。衝動、反射であるイメージが強い。なんかフロイドとアドラーを思い出すな。そして、その根底にあるものが分からなくても別にいいんじゃないか、と思う。だって何かを感じてるんだもん。思うことがあるんだもん。それだけでいいじゃん。みたいなね。

結局知らないことがあるって楽しいんだと思う。だからもう少しこのグレーな気持ちに浸っていようかな。

 

今までの投稿は文面を見返すだけでぎこちなさがすごい伝わってくるけど、今回はいい感じだな。あ、これはもう今年の目標達成かも知れない。

書き言葉と話し言葉って違うもんなあ。前の投稿の言葉は普段話すときのものとは大分かけ離れている。きっと気合いが入ってたんだろうね。でも今日の投稿は書いていても、読んでいても楽だ。私の話し言葉に近いからだと思う。

綺麗な文章は芸術作品としては綺麗だけど、私は遠くから眺めているだけでいい。読みやすくないからあんまり内容が入ってこない。それが主旨じゃない場合が多いからそれでいいんだけど。

ここの投稿は私の日記みたいなものとして書いているから、ぱらぱらめくってさっと読めるように自然な文面で書きたい。

 

ということで日付も変わったので今日はこの辺で。レポートもこういうふうにすんなり書けたらなあ。

クラシック音楽の壁

このブログで一番書きたかったテーマ「音楽」についてまだほとんど書いていなかったので今日は音楽という言葉で色々ブレインストーミング。音楽の中でもクラシック音楽について少し考えてみようと思う。

 

先日オーケストラのコンサートを生中継で観た知人が「こんな私が聴いて良いものなのだろうか。やっぱり敷居が高いなあ。でもこれで自分にも少し教養が身に着いた気がする。」と言っていたのを思い出して、私は考え込んでいたのだ。

生まれた時からクラシック音楽を聴きながら育った私にとってクラシック音楽はたまに言われるような「この世で一番正しく、他の音楽とは比べようもない程のもの」では決して無く、同時に「私の中での原点であり、これを超えるものはあるのだろうか、と思わせてくれる程のもの」でもある。

 

自分の中でのクラシック音楽が持つ意味はさておき、私にとってはクラシック音楽に「教養のある人しか聴いてはいけない」、「知識のある人にしか理解できない複雑なもの」、などと言うレッテルが張られ、人々が気軽に聴くことを躊躇うことがとても悲しい。

 

しかし何故そのようなイメージが持たれるのだろうか。ロックやポップなどと比べると「古い」(歴史が長い)音楽だからなのか、貴族が聴いていた音楽だからなのか。確かにコンサートへ行くと守らなければいけないマナーも多いかもしれない。ドレスコードもある。しかも交響曲とかになると曲の長さもあるのでかなりの集中力が求められる。考えてみると実際コンサートホールで演奏を聴くことはどんな人にもできることでは無いのかもしれない。

 

けれど私は伝えたい。クラシック音楽にも可愛い曲、面白い曲、魂が震え上がるほどかっこいい曲があるということを。聴いていて「あーーここ!!ここが大好きなのよ!」と叫ばざるを得ない瞬間だって沢山ある。爆笑する瞬間だって、涙を流す瞬間だってある。寧ろクラシック音楽こそが表情豊かな音を集めて凝縮されたようなものだと私は思っている。

なんの歌詞も無くても、誰かが歌っていたとして何を言っているのか理解できなくても、「何となく分かる」、「何となく感じる」ことができるのだ。それほど一つ一つの音に、リズムに、ちゃんと丁寧にメッセージがこもっている。偶然生まれた音なのではなく、作曲家が敢えて加えた音なのだ。そこがまた「難しい」と思われる原因でもあるのかも知れないが、別に全てを理解することが目的ではない。音楽を楽しむのが真の目的なのではないだろうか。そして詳しい知識など無くても、何世紀も前、作曲家たちはこんな素晴らしい音楽を生んだということを知るだけで、他の音楽ももっと楽むことができるのだ。

今はコンサートに行かなくてもインターネットや配信サービスを通してどんな音楽も聴けるので、まだちゃんと聴いたことが無い人には是非クラシック音楽にも一度触れていただきたい。

 

結局クラシック音楽の素晴らしさをその類のものに全く親しみが無い人に伝えることができるのは先生のような存在なのではないだろうか。そういった存在によってこの壁が少しでも無くなりますように、と願う。そして、自分もいつか誰かにとってそういう存在になれますように、とも願う。

 

音楽に限らず、どんな物にも興味を持てるような、ひろい心を育てたいものだ。