言語化欲求
旅行からの帰り道、夜のアニメ鑑賞、病院の待合室、最近はいろんな場所で「何か書きたい!」と感じることが多かった。
夏休みに入ったのもあり少し落ち着くことができたので、自然と自分と過ごす時間が増えた。普段はあまり自分の思考や感情に敏感では無いから、こうしてそれらを意識する機会が与えられると不思議な感覚になる。なので、言語化して整理、発散をしたいのだろう。
それとは別にペンを握って紙の上に何かを書きたい、と言う欲求もある。使う道具によって内容や口調が変わるのは常に強く感じる。私の思考の速度と癖を考えると、キーボードで打つのが最適なのかな。手書きだと、何となく書くという行為そのものに気を取られてしまってあまり筆が進まないことが多い。これもデジタル化による副作用なのだろうか。
今までの人生、自己嫌悪にはあまり縁が無かったが、最近ようやくそれらしき物を感じ始めた気がする。
そして自己嫌悪に対する嫌悪感。何を考えても自己嫌悪に行き着くときがあって、最終的に全て自分のことにしてしまうのが嫌で仕方ない。いや、全ては自分のことなんだけど。いま思えばこれは、人に優しくありたいと言う建前を使って主観(と責任)から逃れようとするパターンなのではないか。何とも危ない。自己憐憫とも繋がっていそうでうんざりする。
それでもやっぱり自分について考えるのは面白い。決して得意では無いが、だからこその発見が多々ある。
けれど自分が感じて、考えていることを知って、次はどうするべきなのか。例えば何か悩みがあるとして、それは解決すべきなのか。その解決への欲求と言うか衝動が私は人よりも薄いのだろうか。前に書いた「憂鬱な自分に対して思うことは特に無い」、みたいなことを思い出す。
カウンセリングの初日に聞かれた「これを無事に終えたあと、どんな生活が待っていますか」という問い。自分でも目的がよく分からない。目的を見つけるのが目的なのかも知れない。
抗鬱剤に身体が馴染んできたのか、また少しずつ憂鬱な瞬間が増えてきている。一向に原因が分からない。全てがフワフワしている。漠然とした何か。
ひとつ共通点を挙げるとすれば、人と会った後にそう感じることが多い気がする。後ろめたさ、罪悪感、不安、とか?いつまで経っても人と居る自分に慣れない。なにか嘘を吐いている気分になる。本当にこのままで良いのだろうか、と関係性を疑う。たぶん関係が親密になればなるほど、不安になっていく。人との関わり方がよく分からない。
生まれてからずっとこんな感じなので慣れては居るんだろうけど、前は「まあいいか」だったのが最近、悲しみに変わりつつあるのかも知れない。これもフワフワすぎるけど、何となく悲しいと思うことが増えた。
プレイリストを少し整理した。もうSpotifyからApple Musicに変えて数ヶ月も経つが、未だに保存してたアルバムなどは全く移行できていない。多すぎる。
クラシック音楽ですら弦楽器に惹かれることはあまり無かったので、それ以外のジャンルでストリングスをいいな、と思ったことは滅多に無い。けれど、最近アニメ音楽とかジャズとかを聴きながら自分の好きなストリングスアレンジみたいなものを発見しつつある。
特にKeith JarrettのExpectationsはとても気に入っている。
SpotifyやYouTubeのプレイリストを漁っていると何年も聴いていない曲に再会したりして、そういう瞬間が大好きなのでこれを読んでいる未来の自分、Keith Jarrettを聴け!
近況兼日記
ここで何かを書くときはいつも久しぶりだ。
久しぶりに過去の投稿を遡ってみたら、なんか無性に書きたくなった。やっぱりこういうものを残すのはいいね。とてつもなく恥ずかしいけど、やってよかった。
そしてここで何かを書くときは風邪を引いていることが多い。今日も鼻水を垂らしながら書いています。
自分の投稿を読んでいてまず思ったのが、「ずっと鬱じゃん!笑」
いろいろ変わって行っているようで全く変わっていなかったり、そういうのが面白い。
最近も「どんどん鬱になってるよ」と言われ、確かにそうかも、と改めて実感した。
けれど自分はそれに対して嫌だとかそう言った感情は抱かない。憂鬱なのはそうだと思う。憂鬱なので悲しい、辛い、何かが嫌だと思うこともある。しかし自分のこの状態をどう思うかと聞かれると、恐らくどうも思っていない。これはどういうことなんだ?
来週、やっと精神科でカウンセリングが始まるみたいなのですが、そもそも自分は何故それに応募したんでしたっけ?どこかで「何とかしないとダメだ」と思ったんだと思う。何を?
たしか前に精神科医と話したときも、自分のことなのによく分からないことが多くて困った。ので来週までに少し考えておかねば。
一番肝心な診断には未だに辿り着けていない。架電すらできていない。
前より本を読むようになった。
最近また読み始めるきっかけになった本はThomas MannのDer Tod in Venedigだったと思う。基本的に日本語を読むことの方が多い気がしたから久しぶりにドイツ語が読みたくて。やっぱり美しい言語だと思った。
本を読んでいるとやっぱり集中力の無さが気になってしょうがない。あと、単純に読書の習慣が身に付いていないのがもどかしい。悔しい。ピアノを触るのと同じように本が開けたらな。
今みたいに風邪を引いてやることが少ない状況でも中々読めない。読まないと、と思いながら結局どうしようも無いコンテンツを消費するだけで一日が終わってしまう。それを実感する瞬間が一番憂鬱かも知れない。
今はLongusのDaphnis and Chloeと山内志郎のライプニッツを読んでいます。
山内志郎がTwitterをやっていることを知り、早速フォロー。なんて時代だ。Fluch und Segen。
そして今日も何も読めないまま(よりにもよって)攻殻機動隊を観始めてしまった。
こういう作品や大学の教授、専門書などに触れたときにしばしば感じるこの何か。圧倒感、憧れ、尊敬、わくわく。わくわくがしっくり来るかも。自分よりもずっとずっと知識とか感性とかが備わっていて、人間はこんなものが作れるのか、とわくわくする。
自分がなぜこんなに憂鬱なのかがずっとよく分からないままなんだけど、いま考えると「本当はやりたいことが沢山あるのに何故かできない」というのは重要な要素の一つな気がしてきた。
その「何故か」の裏には発達障害的なものがあると思う自分と生きるとはそういうものなので当たり前だ、と思う自分と。まあ薬か何かで改善できたらラッキーだし、そうじゃなかったら今まで通りやるしか無かろう。何はともあれ、まずは電話…。
上に書いたわくわくは本物なのだろうか。自分がやりたいと思っているもの、目指しているものは、もしかしたら自分の価値を上げたくてそう思っているのだろうか。ふとこう思ったので書いてみたけど、やっぱり分からない。もしそうだったとしても、本当に純粋に好きだからそう思っていたとしても、どうでもいい。
投げやりな意味ではなく、自分も、他人も、自分が好きなものも嫌いなものも、想いとか愛とかも、どこかどうでもいい。これら全てがどうあれ、何の関係も影響も無い場所がある。それは宇宙のどこかかも知れないし、死後の世界とかかも知れないけど、とにかくこう考えると少し安心する。大切にしたいものが少し見えてくる。
冬
去年の年末に書いたものがずっと下書きのまま放置されていた。
多分、このままだと抽象的すぎて何のことなのか分からないから、もう少し書き足そうと思っていたんだろうけど、いま読んでみたら私らしくていいな、と思えたので投稿。
もうすぐ今年も終わる。でもそれはカレンダーを買い替えなきゃいけなくなるだけで、今年と、去年と、その前の何年かの幸せや悩みは年が明けても引っ付いてくる。
なんか最近はそういう自分の人生において継続的なものがよく見えるようになった。それでも新しい出会いは毎日あって、邂逅の連続というか、諸行無常というか。いろんな物が私の中に溜まっていくだけで、何かを失うことなんて無いんじゃないか、と思うような忙しい毎日を過ごしています。
まあ諸行無常と言えど、変化が多い時と少ない時と言うのはきっとあって、それで言えば今年はここ数年、いやもしかしたら今までの人生で一番、変化があった年かも知れない。それはもう大忙しでした。いつかは来ると分かっていたがいつ来るかは分からない日が突然やって来て、それを合図に次々と日常が動き出した。
日記を書くようになった
日記を書かなくなってから1年が経ったようですが、なんと最近は書くようになりました。今年に入ってから毎日きちんと書いています。進歩?
同じく年が明けてから変わらないでいるのがこのモヤモヤ感。憂鬱、とも言えるだろうが、あまり深刻な雰囲気を漂わせたくないのでやめておく。私は一体誰に配慮しているのか。
でも"Don't take yourself too seriously"は私の大切なモットーだ。最近は無視し続けているけれど。その結果、面倒臭いことになってしまっている。
ここにその一部始終を記録しておこう、と思ったが、正直もう言語化し尽くした気がするし、そこまで擦ることでもないかな、と。
強いて言えば、最近はじめて「寂しい」と思った気がしたんです。人とどう接すればいいか分からないし、自分のことは勿論もっと分からない。友達が居ない。分かり合える人が近くに居ない。寂しい。そう思ったんですが、1年前に書いたものを読んでみると、なんと同じようなことが書いてあるじゃありませんか。
つまり私の記憶力の無さ故に私は何度も体験している感情を「はじめて」だと勘違いし続け、何度も考え悩んだことについても数週間後には忘れ、また同じ壁にぶつかる、というような地獄を繰り返している、ということなんでしょうか。
もしそうだとしたら、私は天然の天才なのかも知れないし、自分が面白すぎてかえって気が抜けるというか、安心するというか。そうだとしなくてもその可能性が少しでもあるというだけで私は残りの人生を笑いながら過ごせるかも知れない。
もっとたくさん笑いたいね。いつも私を笑わせてくれる人たち、ありがとう。
J.D. Salinger The Catcher in the Rye
年明け早々にブログを更新するとは思いませんでした。が、先程ようやくサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読み終えたので感情と感想が新鮮なうちに書き留めておきたい。英語で読んだのでタイトルもローマ字で。
この年末年始、かなり憂鬱な気分で過ごしていました。自分と他人との溝が広がっていくばかりで、とにかく社会に対するちいさな怒り、疎外、孤独を感じている。この本をいつ読み始めたのか思い出せないくらい初めてページをめくった日からはたくさんの時間が経ったんだろうけど、この最近の精神状態の中で読み終えることができてよかった。
主人公Holdenの喋り方が好き。というか、サリンジャーの表現が好き。すこし前に読んだSally Rooneyの本の主人公にすこし似ているかもしれない。
Holdenはとにかく色んなディティールに注目する(してしまう?)人で、それに対しての意見というかこだわりがかなりあると思うんだけど、目にしたものとその瞬間感じたことを全て書いてくれているところが好きだ。私は割といろんな物を抽象的に捉えるので、彼みたいな思考回路になることが無い。だから新鮮だったんだけど、面白かったのは、物事の厳密な捉え方は違っても世界/社会に対して感じることがすごく近かったこと。ちがう道を歩いておなじ場所に辿り着いたかんじ。
彼が繰り返し言っていた"phoniness"に対する嫌悪感。とても共感できるところがある。周りの人のほとんどがすごく薄っぺらく見えてしまって、誰も物事の本質になんか興味を持っていない、それに対する苛立ち。私は基本的に他人を嫌うほど人に興味は持てないけど、彼らを見下す自分もきっと存在している。
人が、人とのコミュニケーションが嫌いでいくらでも平気で嘘をついてしまうところとか、同時にやっぱり人が好きで愛したくて、誰も憎めないところとか、自分にすごく似ているのかも知れない。人々のphoninessを揶揄する半面、話せる相手が居ないことに絶望する。最近はその孤独に寂しさすら覚えはじめました。ついに私も人間になれるのですね…。厨二病はさておき。
特に終盤の主人公から感じ取れる葛藤や絶望を単なる思春期とかそれこそ厨二病で終わらせたくない。ジャンル的にこの小説はcoming-of-ageに分類されるらしいが、果たしてそうなのか?大人になればこの数々の悩みと疑問に対する答えは見つかるのか?そういう類のものから逃げる方法に縋ったり、見て見ぬふりをしたりして答えを見つけた気になるだけではないのか?
そもそも大人が何なのかは分からないが、成人した今でも答えは見つからないどころか、いろんな知識が増えれば増えるほど、考えれば考えるほど、何も分からなくなっていくしこれが精神の成熟か何かによって解決されるとは思えない。
最後メリーゴーランドに乗ってただひたすら回る妹を見るHolden。結局、私たちは大切にしたいと思う人たちに救われるのかも知れない。
という訳ですこし暗い気持ちでの年明けではありますが、今年も大切な人たちをいっぱい愛したいです。そして常に感じる孤独については、人で埋めることはやはり難しそうなので、もっと本を読んだり映画を観たりして新しい刺激を取り入れます。次は何を読もうかな。
風邪
久しぶりに風邪を引いた。と、思ったけど確かちょっと前にもここで風邪を引いた報告をしたな。実際の時間と体感時間のズレ。
多分もともと風邪を引きやすい体質なので、年に何回かは寝込むけど、今回の風邪は一味ちがう。
いつもは「なんとなく」始まって「なんとなく」終わる私の風邪だが、今回はちゃんとした、具体的な発端がある。歯磨き粉である。
数日前の夜、シャワー上がりに歯を磨いてたら歯磨き粉が鼻の奥というか鼻と喉の間というか、鼻から水が入ったときに痛くなるあの場所になぜか入ってしまった。その後「まあなんとかなるだろ」と思いながら鼻うがいを何回かして、まだ違和感が残ってるまま寝たら案の定次の日から鼻の調子が悪い、という訳なのだ。
そして発熱、睡眠、飲水、放尿、飲水、放尿、飲水、放尿。
風邪を引くと精神的にもダメージを食らう。
私の場合は嫌な想像をして泣きそうになったり泣いたりして、寝て、の繰り返しが多い。でもこういうのって多分本当に(?)風邪が原因で、体調が良くなるとそこまで暗い気分にはならない。身体と精神の繋がりってすごいなあっていう話です。
ちょっと前も人間の脳の騙されやすさみたいなことについて話した気がする。もう色々考えれば考えるほど何も分からなくなってくる。これも最近どこかで読んだな。ヴィトゲンシュタイン?
哲学といえば今日アドルノの話がちらっと出た。
彼の"Es gibt kein richtiges Leben im falschen."という言葉について少し考えた。考えたはずなんだけど、今はちょっと疲れていて言語化が面倒くさいので大幅にカット。(本末転倒)
直訳すると「間違っている生の中で正しい生などない。」みたいな感じになる。
システムの問題を個人に委ねがちな今の世の中に割とぴったりな言葉かもしれない。とは言え私が世の中の現状を理解できているはずもないので難しい話はここら辺で終わりにしておこう。
最近はまたモーグ音楽を聴いてます。いい感じにゾーンアウトできるので便利。そして可愛い。Weezerの"I like spacing out when somebody talks"という歌詞が辛いほど分かる。All My Favorite Songs自体、結構辛いというか、ネガティブな意味ではなく、ただすごい現実的で、悲しくて、好きです。
夏
ただいまの時刻10:06。はじめて午前中に書いてるかも。
昨日帰国しました。毎回日本から帰ってきた後は心も身体もすごいことになっている。その記録をしたことがなかったのでこの機会にやってみる。
とにかく「夏!!!」というかんじの夏でした。「すごいゼリーってかんじのゼリー」を食べたときと同じ言語化レベルになってしまっている。
人生ではじめての青春を過ごした夏だったのかもしれない。まあ今までも小さな青春モーメントはいくつかあったけど、基本的にずっとひとりだったので今回誰かと一緒に時間を共有できたのが青春的だったし、嬉しかった。
浴衣を着て街を散歩したり、海で朝日を眺めたり、公園でお酒飲んだり、漫画かよ!!とツッコミ続ける日々。日本に居たときの情報量が多すぎて、自分のベッドの中へ帰った瞬間「このまま死ぬのかな、私…」と壮大な虚無感を感じながら瞼を閉じました。壮大な虚無感ってなんか面白いな。
そして今に至る。幸せすぎて、楽しすぎて、「あれは全部夢だったのか?」状態です。いつものこと。
帰りの空港で入国審査官のお兄さんと「向こうの実家に帰ってたの?」「そうです」「で、またこっちの家に帰ってきたわけだね。おかえり。」というやりとりがあって。久しぶりに私には2つの「家」があることを実感した。小さいころからずーーっと感じて、考えてたこと。言葉とか、文化とか、アイデンティティーとか。この先もずっと考えることになるのかな。あまりにも遠いし違うから、こうして帰るたびにそのギャップに追いつけないんだと思う。
しかし!違うところについてばかり悩まされたくない!「ふたつのものを見たときに、それぞれ違うところを探すほうが簡単だけど、同じ部分を見つけることのほうがずっと大切なんだよ」という音楽の先生の言葉を忘れずに、どこに居ても変わらないものを大事にしたい。どこに居ても愛し続けられる人と音楽に今日も感謝。
ここまで大切だと思えるものに出会えたことが何よりも幸せ。これからも大切にできるように、自分ももっと幸せになります。ありがとう。ポジティブ!
とりあえずパン食べたい。