ゆるくいろいろ

言語化の練習 音楽とかアニメとか翻訳とか

日記を書くようになった

日記を書かなくなってから1年が経ったようですが、なんと最近は書くようになりました。今年に入ってから毎日きちんと書いています。進歩?

 

同じく年が明けてから変わらないでいるのがこのモヤモヤ感。憂鬱、とも言えるだろうが、あまり深刻な雰囲気を漂わせたくないのでやめておく。私は一体誰に配慮しているのか。

でも"Don't take yourself too seriously"は私の大切なモットーだ。最近は無視し続けているけれど。その結果、面倒臭いことになってしまっている。

ここにその一部始終を記録しておこう、と思ったが、正直もう言語化し尽くした気がするし、そこまで擦ることでもないかな、と。

 

強いて言えば、最近はじめて「寂しい」と思った気がしたんです。人とどう接すればいいか分からないし、自分のことは勿論もっと分からない。友達が居ない。分かり合える人が近くに居ない。寂しい。そう思ったんですが、1年前に書いたものを読んでみると、なんと同じようなことが書いてあるじゃありませんか。

 

つまり私の記憶力の無さ故に私は何度も体験している感情を「はじめて」だと勘違いし続け、何度も考え悩んだことについても数週間後には忘れ、また同じ壁にぶつかる、というような地獄を繰り返している、ということなんでしょうか。

もしそうだとしたら、私は天然の天才なのかも知れないし、自分が面白すぎてかえって気が抜けるというか、安心するというか。そうだとしなくてもその可能性が少しでもあるというだけで私は残りの人生を笑いながら過ごせるかも知れない。

 

もっとたくさん笑いたいね。いつも私を笑わせてくれる人たち、ありがとう。

 

 

J.D. Salinger The Catcher in the Rye

年明け早々にブログを更新するとは思いませんでした。が、先程ようやくサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読み終えたので感情と感想が新鮮なうちに書き留めておきたい。英語で読んだのでタイトルもローマ字で。

 

この年末年始、かなり憂鬱な気分で過ごしていました。自分と他人との溝が広がっていくばかりで、とにかく社会に対するちいさな怒り、疎外、孤独を感じている。この本をいつ読み始めたのか思い出せないくらい初めてページをめくった日からはたくさんの時間が経ったんだろうけど、この最近の精神状態の中で読み終えることができてよかった。

 

主人公Holdenの喋り方が好き。というか、サリンジャーの表現が好き。すこし前に読んだSally Rooneyの本の主人公にすこし似ているかもしれない。

Holdenはとにかく色んなディティールに注目する(してしまう?)人で、それに対しての意見というかこだわりがかなりあると思うんだけど、目にしたものとその瞬間感じたことを全て書いてくれているところが好きだ。私は割といろんな物を抽象的に捉えるので、彼みたいな思考回路になることが無い。だから新鮮だったんだけど、面白かったのは、物事の厳密な捉え方は違っても世界/社会に対して感じることがすごく近かったこと。ちがう道を歩いておなじ場所に辿り着いたかんじ。

 

彼が繰り返し言っていた"phoniness"に対する嫌悪感。とても共感できるところがある。周りの人のほとんどがすごく薄っぺらく見えてしまって、誰も物事の本質になんか興味を持っていない、それに対する苛立ち。私は基本的に他人を嫌うほど人に興味は持てないけど、彼らを見下す自分もきっと存在している。

人が、人とのコミュニケーションが嫌いでいくらでも平気で嘘をついてしまうところとか、同時にやっぱり人が好きで愛したくて、誰も憎めないところとか、自分にすごく似ているのかも知れない。人々のphoninessを揶揄する半面、話せる相手が居ないことに絶望する。最近はその孤独に寂しさすら覚えはじめました。ついに私も人間になれるのですね…。厨二病はさておき。

 

特に終盤の主人公から感じ取れる葛藤や絶望を単なる思春期とかそれこそ厨二病で終わらせたくない。ジャンル的にこの小説はcoming-of-ageに分類されるらしいが、果たしてそうなのか?大人になればこの数々の悩みと疑問に対する答えは見つかるのか?そういう類のものから逃げる方法に縋ったり、見て見ぬふりをしたりして答えを見つけた気になるだけではないのか?

そもそも大人が何なのかは分からないが、成人した今でも答えは見つからないどころか、いろんな知識が増えれば増えるほど、考えれば考えるほど、何も分からなくなっていくしこれが精神の成熟か何かによって解決されるとは思えない。

 

最後メリーゴーランドに乗ってただひたすら回る妹を見るHolden。結局、私たちは大切にしたいと思う人たちに救われるのかも知れない。

 

という訳ですこし暗い気持ちでの年明けではありますが、今年も大切な人たちをいっぱい愛したいです。そして常に感じる孤独については、人で埋めることはやはり難しそうなので、もっと本を読んだり映画を観たりして新しい刺激を取り入れます。次は何を読もうかな。

とりあえずAlma Gluckが歌うComin' Thro' The Ryeを聴きます。サイコパス観たいな。

風邪

久しぶりに風邪を引いた。と、思ったけど確かちょっと前にもここで風邪を引いた報告をしたな。実際の時間と体感時間のズレ。

 

多分もともと風邪を引きやすい体質なので、年に何回かは寝込むけど、今回の風邪は一味ちがう。

いつもは「なんとなく」始まって「なんとなく」終わる私の風邪だが、今回はちゃんとした、具体的な発端がある。歯磨き粉である。

数日前の夜、シャワー上がりに歯を磨いてたら歯磨き粉が鼻の奥というか鼻と喉の間というか、鼻から水が入ったときに痛くなるあの場所になぜか入ってしまった。その後「まあなんとかなるだろ」と思いながら鼻うがいを何回かして、まだ違和感が残ってるまま寝たら案の定次の日から鼻の調子が悪い、という訳なのだ。

そして発熱、睡眠、飲水、放尿、飲水、放尿、飲水、放尿。

 

風邪を引くと精神的にもダメージを食らう。

私の場合は嫌な想像をして泣きそうになったり泣いたりして、寝て、の繰り返しが多い。でもこういうのって多分本当に(?)風邪が原因で、体調が良くなるとそこまで暗い気分にはならない。身体と精神の繋がりってすごいなあっていう話です。

 

ちょっと前も人間の脳の騙されやすさみたいなことについて話した気がする。もう色々考えれば考えるほど何も分からなくなってくる。これも最近どこかで読んだな。ヴィトゲンシュタイン

 

哲学といえば今日アドルノの話がちらっと出た。

彼の"Es gibt kein richtiges Leben im falschen."という言葉について少し考えた。考えたはずなんだけど、今はちょっと疲れていて言語化が面倒くさいので大幅にカット。(本末転倒)

直訳すると「間違っている生の中で正しい生などない。」みたいな感じになる。

システムの問題を個人に委ねがちな今の世の中に割とぴったりな言葉かもしれない。とは言え私が世の中の現状を理解できているはずもないので難しい話はここら辺で終わりにしておこう。

 

最近はまたモーグ音楽を聴いてます。いい感じにゾーンアウトできるので便利。そして可愛い。Weezerの"I like spacing out when somebody talks"という歌詞が辛いほど分かる。All My Favorite Songs自体、結構辛いというか、ネガティブな意味ではなく、ただすごい現実的で、悲しくて、好きです。

ただいまの時刻10:06。はじめて午前中に書いてるかも。

昨日帰国しました。毎回日本から帰ってきた後は心も身体もすごいことになっている。その記録をしたことがなかったのでこの機会にやってみる。

 

とにかく「夏!!!」というかんじの夏でした。「すごいゼリーってかんじのゼリー」を食べたときと同じ言語化レベルになってしまっている。

人生ではじめての青春を過ごした夏だったのかもしれない。まあ今までも小さな青春モーメントはいくつかあったけど、基本的にずっとひとりだったので今回誰かと一緒に時間を共有できたのが青春的だったし、嬉しかった。

 

浴衣を着て街を散歩したり、海で朝日を眺めたり、公園でお酒飲んだり、漫画かよ!!とツッコミ続ける日々。日本に居たときの情報量が多すぎて、自分のベッドの中へ帰った瞬間「このまま死ぬのかな、私…」と壮大な虚無感を感じながら瞼を閉じました。壮大な虚無感ってなんか面白いな。

そして今に至る。幸せすぎて、楽しすぎて、「あれは全部夢だったのか?」状態です。いつものこと。

 

帰りの空港で入国審査官のお兄さんと「向こうの実家に帰ってたの?」「そうです」「で、またこっちの家に帰ってきたわけだね。おかえり。」というやりとりがあって。久しぶりに私には2つの「家」があることを実感した。小さいころからずーーっと感じて、考えてたこと。言葉とか、文化とか、アイデンティティーとか。この先もずっと考えることになるのかな。あまりにも遠いし違うから、こうして帰るたびにそのギャップに追いつけないんだと思う。

 

しかし!違うところについてばかり悩まされたくない!「ふたつのものを見たときに、それぞれ違うところを探すほうが簡単だけど、同じ部分を見つけることのほうがずっと大切なんだよ」という音楽の先生の言葉を忘れずに、どこに居ても変わらないものを大事にしたい。どこに居ても愛し続けられる人と音楽に今日も感謝。

ここまで大切だと思えるものに出会えたことが何よりも幸せ。これからも大切にできるように、自分ももっと幸せになります。ありがとう。ポジティブ!

とりあえずパン食べたい。

新発見

Sally RooneyのConversations with Friendsという本を読んでいて新しい発見があったのでメモ。思っていたよりもいい本だったから、違法?ダウンロードじゃなくて、ちゃんと紙の本として買えばよかった。

この物語ではFrancesという女性が主人公であると同時に語り手でもあるから、Frances目線での情報しか読者に伝わらない。しかも彼女は物書きという職業柄か、たくさん喋る(頭の中で)。その喋り方というか、個性的な着眼点が私はかなり好きだ。細かくてリアルで、彼女の目に映るもの全てが景色ではなく情報であるように感じる。その小さな情報たちはちゃんと繋がっていて何かを表している。

 

しばらく文章に没頭する時間を過ごした後は、本を読んでいないときも私の中のFrancesが私の生活のナレーションを始める。それは私が一生懸命考えて生み出すものではなく、ほとんど自動的に頭の中に流れ込むような感じのものだ。これが今回の発見。

自分の中で「多分彼女は今のこの状況ではこういう風に喋るんだろうな」という想像?妄想?がしっかり成り立つくらいRooneyはFrancesという人間を丁寧に書き込んでいるということなのかな。けれど未知な部分もたくさんあって、彼女でさえ知り得ない彼女も確かに存在する。それが彼女を「本物」だと思わせる。

 

作者が書いた物語の中でしか存在しないはずのキャラクターがこうして私の中で、現実世界の中で生きている。いや、果たしてFrancesは本当に物語の中でしか存在しないのだろうか?だって現実があってこその想像と創作なのでは…?まあ、この話はまた別の機会にでも。(ストックは増えていくばかり~)

この体験は初めてではないけど、ここまではっきりと自覚したことはなかった。あまり読書をして来なかったお陰で今こういう発見ができたのかな。楽しい。そしてLuiz Bonfaのギターは素晴らしい。今日も全ての幸せに感謝の正拳突き!

 

 

気持ち悪い気持ち良さ

数日前、美容院帰りに見た情景が忘れられないのでメモ。忘れられないと言っておきながらすぐにも忘れそうなので。

 

美容院で綺麗に髪を切って染めてもらったので浮き浮き気分で駅のホームへ繋がる階段を登ってたら、登ってすぐのところに子供が2人。抱き合ってたので「遊んでるのかな〜」と思いながらホームに着いたらなんと2人とも泣いていた。

最初は1人の泣き顔しか見えなかったから、その子が怪我でもしてもう1人の子に慰めてもらってるのかな、って思ったけどさりげなく後ろに回ってみたらもう1人も泣いていた。

 

ここまでの予想とか想像を数秒で勝手にしてしまうんだから、人間の脳はすごいな〜と謎に感心。でもどうしても気になってずっとチラチラ子供達を見てしまう野次馬精神はどうかと思う。

 

結構シリアスな雰囲気だったので心配していたら、その子たちのすぐ側に親らしき人物を数人発見。男と女が2人ずつ居たので、家族同士で会って遊んでたのかなあ。親たちは子供にあまり興味が無さそうで、ずっと喋ってた。

もうすぐ電車が来るというタイミングで親が最後に子供たちの写真を撮って、1人の子とその家族が私と同じ電車に乗った。電車に乗るまで2人の子供はずっと泣きっぱなしだったし、乗ったあともホームに立っていたもう1人はずっと電車の2階を見つめてた。私は下の階に座っていたけどその子を見て一緒に乗った子は上に座ってるんだな、と理解した。

電車の外に居た子供は発車するまでずっと車両の上のほうを見つめたままで、ゆっくり動き出した時に最後に手を振ってた。そのあとその子のお父さんが腕を引いて階段を降りようとするけど彼女はその手をはたいて激しく頭を横に振った。

 

私が見たのはここまででした。あんなに泣きながら必死に抱き合う子供を見たことがなかったからか、自分にとってかなり衝撃的な景色だと感じた。あの9、10才くらいの子供たちがすごく大人に見えた。「あの感情、私も知ってるやつだ」と思った。

その子たちを見ていたらなんだかすごく悲しくなって泣きそうになった。勝手に野次馬根性を発揮させて勝手にダメージを受けた自分が気持ち悪い。でも気持ちいいダメージだったので良しとしよう、と更に気持ち悪いことを思ってしまった自分は…。

 

他人の泣き顔を見てその悲しみを追体験したときの快感とは。そういう役者を泣かせて視聴者を泣かせようという魂胆が見え見えのドラマがかなり苦手なので、その類のものは絶対に観ないけど、勝手にしんみりしたときの「もっとこれに浸っていたい」感はたしかに存在するよね。

 

今日の帰り道にもおばあちゃんを助ける青年を見かけ、ほっこりした訳ですが。これとドラマのあれはまた違う感情なのかも知れないけど、なんで私はほっこりしたんだろう。なんで私は悲しくなったんだろう。なんで人間はこんなにも共感性が高いんだろう。優しさとは、心とは、人とは、という具合に頭の中で宇宙が広がった。気持ち悪い。もしかして私って自分のこと気持ち悪いと思ってる?

 

まあ、あの宇宙が消えることはまだ無さそうだし、その中の数々の疑問に対して急いで答えを見つける必要も無いと思うので、一旦保留に。

多分私の中の一旦保留ストックがすごいことになってる。

 

とにかく、子供は私たちが思っているよりも色々考えたり、感じたりしている、ということを忘れずに居たい。私も子供の頃「なんでこんなに馬鹿にされるんだ、真面目に話を聴いてくれないんだ」、と腹を立てていたのかもしれない。そうじゃなかったとしても、私は全子供たちを尊敬したいしありがとうと言いたい。

 

髪の毛は人生初黒染めをしていただきました。お赤飯、いや、お黒飯を炊きたいほどには気に入っています。地毛よりもかなり黒いので不思議な気分。エモでグランジーな気分。マイケミが聴きたい気分。

 

日記を書かなくなった

もうかれこれ4、5年くらい日記をつけているけど、定期的に書かなくなる時期がやってくる。大体、精神状態がすこし不安定になった時だと思う。

ここ最近はやらないといけないことが沢山あって、でも何もできなくて、みたいなことが続いたので疲れたせいか、多分1か月間くらい日記を書いていない。なんとなく罪悪感に追われる。別に書かなくてもいいのに。けど書きたいのだ。じゃあ今ブログなんてやってないで日記を書けばいいじゃん、という話なんだけど。それとこれとはまた別の話というか、こういう言い訳が重なって今に至るというか。

数週間前はすこし辛かったけど、今はまたちょっとずつ楽しいと思えることが増えてきている。順調です。不調も慣れればルーティンの一部になる…。

 

良い出会いがあって、それがとても嬉しい。自分が話してて楽しいな、と思う人たちの共通点を探ることが今後の課題なのかもしれない。人に限らず、音楽も絵も映画も、自分が好きな理由と嫌いな理由を考えてみるのはこの先にとても役立つのでは、と思っている。

まだまだやることは山ほど残っているけど、とりあえず目の前のことに集中しよう。ゆっくりでいいものは、ゆっくりやる。けど日記はできるだけ早くまた再開したいです。そして足の水ぶくれもできるだけ早く治したい。